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昨年の暮れのイベントに
ジャマイカと書かれた黄色Tシャツにドレットヘアーの人がいたのを憶えてますか?。
九州にあるビーチサッカーチーム「ドルソーレ北九州」に所属している福山雄大選手です。
彼の書いているブログで非常にいい記事だったので抜粋させてもらいます。
選手の皆さんもそうですが、保護者の方も是非読んでみてください。

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『~デブだから始まった~
「雄大、太り過ぎだからスポーツをさせます。」と、親から言われた。
「野球とサッカーどっちがいい?好きな方を選んで!一緒に行こう!」って。
やりたくないなー別に太っててもいいのに!
ま、途中でやめちゃお!
って思いながら見学に行った。
「(…ムム、野球は買う道具が多すぎる。
バッドにグローブ、ユニフォームにスパイク、打つ時の手袋、
帽子とヘルメット?!多すぎる。
やめにくいぞこりゃ。
サッカーはどうだ。
ボールと長い靴下だけ?靴は?普通の靴の子もいる。
サッカーボールだけあればいいのかな?)サッカーがしたい!  」
東京の稲城市から神奈川県の相模原市に引っ越してきた小学一年生の夏、
今から18年前のこと。
走りも遅いし、というか走りたくないし。
足でボール触るのチョー大変だし。
痛いし。
ボール硬いし。
土日が苦痛だった。
そしたらある時「キーパーやるか?」ってコーチが言ってきた。
「走らなくていい!」
「手使っていい!」
「最高だー! 」
って。
思った通り、試合中は立ってるだけ。
キーパー最高ー!って思ってたら、練習が地獄だった。
泥だらけ、血だらけ、アザだらけ。
練習は過酷だったけど、どんどん上手くなってく自分がわかった。
上手くなっていくのが楽しくて、どんどんハマっていった。
小学4年生の時、GK相模原選抜になった。
他には2人キーパーが選ばれてて、小5で170センチ近くあった。
僕は135センチ。
一対一、バネ、判断力、キャッチングの評価が良かった。
小学校の卒業文集には
『僕の夢計画』
って題でプロになるまでの計画を一生懸命考えて書いた。
横浜マリノスかヴェルディ川崎に入団して守護神になるって。
中学生になっても、ゴールキーパーをした。
ペナルティエリア外からのシュートは入れられる気がしなかった。
高校生になってもゴールキーパーをした。
みんなすごくうまくて、ボールを止めるのが本当に大変だった。
東京の高校八王子選抜になった。
もちろん一番小さかった。
高校のグランドの砂は、手洗いしてもなかなか落ちなくて
砂が詰まって洗濯機を二台買い変えた。
「 あんたのサッカー服は他のと絶対一緒にしないで。」
と美容師の母ちゃんと2人の妹が騒ぐから、
工場勤務のオヤジユニフォーム「油まみれ作業着」と一緒に洗濯機へぶち込まれるようになった。
だんだんユニフォームが油臭くなってきて一緒に洗われたくないなって思って、
自分で洗濯して濡れたまんまエナメルバッグに押し込んで、
片道20km以上の学校にママチャリ飛ばして持ってって、
教室のベランダに干すようになった。
そして高校3年の夏、西東京の選手権予選。
東大和南高校にボコボコされてぼろ負け。
初戦敗退。
チームメイトから、
『やっと終わったわー、内申点あげるのも大変だよなー』
「ま、最初から勝てないのはわかってたしね!」
って声が聞こえた。
俺のサッカー人生はコイツらとしたサッカーで終わりか…?!
と思ったらまた涙出てきた。
会場からなかなか出られなかった。
悔しくて、悔しくて。
「僕の夢計画」は終わるのか…??
いやいや。
こっからっしょ。


「 これから背も大きくなるんだし、マリノスかヴェルディに入るためにセービングの練習しとかないと!」
と、高3男子1人公園でボールを置いてそれに飛びつく練習を何時間もやってたけど、涙出てきた。
途中で、大の字になったりしてた。
「 …生産性が無いな 」って。
そんなとき、日大明誠でコーチをしてるOMAさん(小俣氏 )に出逢った。
ニーアッカ(現 ゆーだいスペシャル…笑)を見せてくれた。
今思い出せば、すっごい粗削りな、へったくそなニーアッカだった
「あー、違う。」
「うー!こうじゃない。」
「あー!!もうちょい!」
とか言いながら、何度も失敗していた。
当時28歳のOMAさん。
「(できた)うー!これこれ!これだよ!」と嬉しそうに僕の頭の上を抜いていった。
「ゆうだい!!世界は広いぜ。リフティングやれよ!無限だぜ!」
その頃僕はリフティング最高で50回。
ゴールキックも下手くそで蹴れなかったからセンターバックの背が高くて足が早かった青木君が蹴ってくれてた。
キーパーは止めりゃいいんでしょ?止めりゃ。って思ってたからリフティングは中3の50回でやめた
50回から始めたリフティング。
高校生のロッカーは暗証番号を自分で決められたから、《0050》。
ロッカーの暗証番号がライバルだった。
最初の目標は、《9999》
2週間も毎日朝から晩までひたすらやったら《1356》とか、《3530》とか。
5000回いかないぐらいまで出来るようになった。
ロッカーの暗証番号《9999》は、めちゃめちゃ手強かった。
一緒にリフティングするやつなんか誰もいなかったけど、
頭の中にいつもロッカーがいた。
毎日毎日一人で、朝も夜も。
家でも学校でもずーっとやった。
1000回は10分で出来るペースになった。
始めてから、100日ぐらい。
突然、40000回できた。
その日から暗証番号は《0000》にした。
高3の夏、進路相談で
「将来はサンシンを弾きながら沖永良部島でのんびり暮らしたい」って話したら、
「ゆーだいは、優しいしスポーツマンだからリハビリの先生になったらいいと思う!」
って担任の奥津先生と進路の福田先生から言われた。
沖永良部島で理学療法士してる叔父ちゃんがいたから話はすぐに通って、
奨学金も、沖永良部島に唯一ある徳州会病院から全額貸してもらえることになった。
そのお金で理学療法士になるための専門学校に入学した。
勉強は難しかったけど、やれば出来るってわかってたから、やり方を一生懸命考えた。
神経伝達の過程を「のび太君がジャイアンにいじめられてドラえもんを呼んで、画期的なアイテムが出てくる」過程と重ねて楽勝に覚えられた。
OMAさんが「 遊び心だ!」ってサッカーの時いつも言っていた。
素敵だな!って思ってた。
だから、僕も学科内で、勉強は「 遊び心 」を持ってやれば楽しくて何でも覚えられちゃうんだーとか言っていた。


専門学校に通いながら、バイトもした。
今も大好きなニライカナイという沖縄料理屋だ。
少しだけど、お金を持てるようになった。
勉強もしながら、リフティングも毎日欠かさずしてたらOMAさんがいろんな人を紹介してくれるようになった。
元プロの人とか、プロの人と
そっから、Fリーがーになりたいと思うようになった。
「俺は理学療法士になるべき人間じゃない!Fリーガーだ!フットサルをするんだ!」って思うようになった。
リフティング始めて、1000日ぐらい。
個人参加フットサルとかでも一目置かれるようになった。
「上手いねー!!どこ高校出身?」
おっさん達から毎回聞かれるようになってた。
「ユダーイは高校までキーパーだったんだぜ。な!ゆだーい」
ってOMAさんが得意げに言うと、みんな驚いた。
僕はすごく嬉しかった。
それから自信を持つようになった。
上手くなってきてる自分がわかってきたから。
自信がついてきて、いろんな人に話しかけるようになった。
目があったら挨拶する子供だったけど、もっともっと図々しくなった。
誰と、どんな人生を歩もうか
土足じゃなくって、裸足でヅカヅカと上り込んでる感じかな。
自分はデブだったからサッカーか野球か選ばされて、
サッカーならボールひとつありゃいいんだ、辞めやすいな。
と思ってサッカーと出逢った。
なんで、始めたか。
いつ、始まったか。
サッカーがビジネスにもたれかかってくると、本質を見失うこともあり得る。
ビーチサッカー選手として、ビーチサッカーを純粋に楽しみたい。
ビーチサッカーしてたら、サッカーもフットサルも、フッチバレーもコンクリでも…
関係ねーから!!原点だから!を体現したい。
いずれ、フッチボーの中に自分の生き方・在り方が含まれるように。
自分だけで解釈して行く世界から、多くのフットボーラーと共有していく世界に
日本サッカー界に革命を…。
日本の代表の試合つまんねー!って文句言うなら、自分たちでその地位まで行くしかな
ガンバロウ、ニッポン!!!
がんばれ日本!なんて、無責任。
あなたも、わたしも、みんなで
がんばれ、がんばる、がんばろう。
日本は、それが出来る国だよ。』

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